眼石祝応の評論とは

ようこそ、眼鏡評論家などとのたまうヤカラ(僕です。)のホームページへ。

 

(以下オプテリアグラシアスblogより転載)

唐突ですが、僕はこの業界に欠けているのは

評論家だと言ってきました。

 

僕の尊敬する先輩が、評論家ぶっているお店の店主は苦手と

仰っていましたが、

 

僕は

 

評論家ぶっている「僕」のような人と

 

本物の評論家は別物だと思っています。

 

そして今の眼鏡業界で本物の評論家は他の業界人と何が違うのでしょう?

 

僕の中で評論家の定義とは、圧倒的に足りている知識と

審美眼、更に僕ら眼鏡業界に対する愛が必要だと思っています。

 

愛の無い評論を僕は罵倒だと断じるでしょう。

 

知識の無い評論を知ったかぶりだと感じるでしょう。

 

そしてその評論家なりの琴線が存在し、その評論家の評価軸は

多くの方の共感を得る必要があるのです。

 

その琴線や評価軸の存在しない評論は、最早評論とも言えない、

ただの文章です。つまりその人ならではの基準が存在せず

ぶれまくっていては、生活者の方々はその評論家の基準を信じる事も

参考にすることも出来なくなります。(以下続く…。)

 

以上オプテリアグラシアスblogより。

元記事はこちら

 

眼石祝応なりの評論家の定義、

 

1:圧倒的に足りている知識。

2:その人なりの審美眼がある事。

3:そしてプロダクトや業界に対する愛。

 

これら三点が必要不可欠で、僕より知識を有する諸先輩は数多くあれど、僕程業界を愛して、そして感謝している人はいないと自負しています。その想いだけを頼りに圧倒的に不足している知識を補いながら、一歩一歩評論家業を始めてみたいと思います。どうかまだ生まれたてのひよこ同然ですが、温かい目で見守って頂ければ幸いです。